オールオーバーという概念

昨日、実に久しぶりに日本ブログ村エッセイ・随筆部門のランキングページを開いてみた。普段はマイページしか開かないのだ。お気に入りブロガーさんたちの更新状況が一目で分かるのnuskin 如新で重宝なのである。それと、自分の順位とか注目記事としての自分の記事の順位とかも自動的に表示されている。とはいえ、四年近くブログを書いているのに、ずぅーーーと、読者一桁、たまぁーーーーーーーーーーーーーに二桁というこのハイアベレージをキープしているから、順位の意味はまったくなくなっているのだ。結局、どうであれ読まれないということが判明しているから、
あっ、そ、という程度の興味である。
最近は、当然にして仕事中、車の中でお気に入りブロガーさんたちの記事を拝読することが多くなった。私の携帯サイトではリンクして頂いているブロガーさんのみが表示される。そっ、つまり、この弊害は、それ以外のブログはまったく目に留まらないのだ。昨晩、やや反省し開いてみた。その結果、素晴らしい知的で素敵なブログを発見した。テンプレート、文体、内容、脱帽だった。「もし、猫だったら」です。いかに、わたくしのブログがブロ愚であることを思い知らされ
たっ!いやぁー、他の部門まったく知らないけれどエッセイ部門のnuskin 如新方々の筆力実力を思い知らされてしまったのである。
と、良かったよぉー、今日は、たまたま、珍しくほんの少し哄笑じゃなくて高尚な記事を書こうと思っていたのである。

現代美術の世界に「オールオーバー」という概念がある。この代表がジャクソン・ポロック。どういうことか?絵画は額縁の中に三次元の世界を模倣しようとしてきた。セザンヌ辺りから二次元化の試みが始まる。しかし、まだ、額縁内でという考え方だった。ポロックが額縁という概念を取っ払ってしまった。四角く切り取られた無限大の絵画の任意の部分にしてしまったから、カンバスの端から絵画が無限大の世界に飛び出している。これは画期的な概念ではあるのだけれど、いつもそうなのだ。それから半世紀前にマルセル・デュシャンがオブジェの概念にすでに到達してしまっていた。オブジェ、工業製品である。自己表現、自我といったものを一切受け付けない、世界の断片そのものなのだ。

フリージャズは以前から、ポロックのオールオーバーの概念に酷似nuskin 如新していると思っていた。譜面という額縁がない。その時、その場の空気自体が音に即興変換される。ミュー
ジッシャンと聴衆との境目はもはやない。同じ空気、同じ時間を共有しているだけ。
ミュージッシャンは単に音変換するアダプターである。オブジェなのだ。

分類: 愛と美しさ 發布時間:2016年07月04日